2019年8月19日月曜日

お前誰だよ

ネットや店において、一部の知り合いから認知されているものの、その認知されてる状態を他人が見ても、
「一体、誰だよ」
と疑念を抱かれる。そこでその認知の輪を乱さないように遠慮が発生し、
人は距離を置く。そして、気を遣わせることで労力を発生させてしまう。


なので、自分が居心地いいからと言って、そのまま居座っては知らない一部の人にとっては負担になる。
まして、一人で来てて所在を求めてる中で空気が出来上がってしまうと、
ますます居場所がなくなる。
公共の場所で自分を認知してくれてる人が多いようなところでは
より遠慮した振る舞いが空気づくりに欠かせない。

自分知らない人が「○○さんだー!」って騒がれていても、面白くはない。それも周りは知っていて、
自分だけが知らないと、輪に入ることもできない。一人でいる時よりもさらに深い孤独を集団の中で味わわせられてしまう。
さっきまで仲良く話してくれた人までもその人に興味が移ってしまうとなおさら、孤立してしまう。

その大勢に認知されてる人の説明を周囲の人はしてくれても、興味がもてなかったり、初対面が苦手な人は説明を受けても何の得もない。
さらにその認知を受けてる人がこちらに触れてこなければ、取り残された状態は続く。

そうならないためにもある程度、知り合いが増えたからと言って、知り合いとばかり交流してはいけない。
馴染み客の多いスナックに一人で入って、居住まいが悪い思いをする光景は想像できると思うが、
自分がその発生源になってしまっては人の楽しみを奪う加害者となる。

そういうことが連続すれば、認知を受けてる人も交流の輪が固定され、飽きられてしまったときには
その人もまた孤立してしまう。大人の交流は同じ場所に通い続ける前提の学校とは違い、非常に流動的だ。
学校と同じように安定した交流を当たり前だと思ってしまうと、人はいつか離れていく。

まして、新しく来た人間を大事にできない人間は信頼されない。
ある程度、気心知れたら後は雑に付き合うような
心根を持った者などに人はついてこない。徐々に、あるいはどこかしらのタイミングで見切りをつけられる。

過疎化した村と同じで、異文化を受け入れることを恐れ、保守的になり、安定を求めた結果、より過疎化が進む。
一人の人間関係も同じだ。個人の人間関係は極小の村と言っていい。
発展のない村はいずれ滅ぶ。

ある程度、人付き合いが多くなったら、管理する責任が出てくる。
場の空間を乱さないためにも、自分の人間関係を健全な状態を保つためにも。

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