2019年8月20日火曜日

マズい飯でおいしいものをよりおいしく

好きな定食屋に行ったり、食べたいラーメンを食べる。
これが当たり前になっていないだろうか?
もちろんどこの食事処で飯を食おうが個人の勝手だ。
ただ、問題なのは“当たり前”になってしまっているところだ。

考えてもらいたい。惰性で出てくる朝ごはんはおいしいだろうか?
たまに飽きたりもしてないだろうか。ただ漫然と食べているだけ。
その時間は実にもったいない。うまいと改めて思える食事と比べれば価値が低い。

なら、せめて昼くらい価値を上げるべきだ。なのに、どうだろう。
その昼ですら適当な店で済ましてしまう。
一体、いつ食事に感動できる日が来るのだろうか。
それはチェーン店に通わず、個人店に通っても同じだ。
うまいものでもそれを毎日食べてしまえば、それが当たり前となってしまう。
普通とうまいものがあるとすれば、うまいものが普通になっている。
これはこれでもったいないことなのだ。
400円未満の定食、ラーメンを意図的に食べるんだ。
金銭に余裕があろうとも行く。
逆に惰性でコスパのチェーン店に行っていたら、たまにはいいもん食え。
そこで後悔しながら食べろ。そんなにおいしくないなと。
さらに個人店の工夫の凝らしたメニューを想像する。
すると、食感や香りなどの違いが分かるはずだ。

そこで食べたい欲求を膨らまして、翌日の好きなラーメンとかを食べよう。
先日抱いた想像や後悔と目の前の欲望を叶えた食事の感覚を照らし合わせる。
すると、日ごろ、感じなかったおいしさを鋭く感じることができるだろう。
「いつもこんなにうまいものを食べていたのか…」と。

だから、たまにはマズいものを食うんだ。
選択の豊富さと食の豊かさを思い知るために。
コスパの良さを追求した飯との落差がそのまま幸せの大きさとなる。

まぁ、たまにコスパ重視でもスープの出来の良さに感激してしまうこともあるけど。

とにかく、あえて貧しい選択をしろ。豊かさは当たり前からは生まれないぞ。
あまり想像しすぎなのとストレスで幸福がかき消されて、不幸になったりするけど。

飯はおいしいし、特に食に感動とか求めてない?うるせぇ、消えろ。

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